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  • 2010.10.28 Thursday
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卒試合格発表と生検*10.1.25

◎2010年1月25日 MON

 今後の方針説明やら、検査やらその承諾やらで病院へちょくちょくと呼び出されたり、高額医療費の負担軽減のなんたらで役所へ行ったりだとかバタバタさせられ、1月25日をすっかり忘れてましたが、卒業試験の結果発表でした。
 前日に友達から電話があり、やっと気づいたという…
 もう朝から胃が痛いしゲロっちゃいそうだし、もう眩暈が…
10時発表で、11時位に行ったのですが、掲示板の前に同期の人がいたりして、近づけなくて怖くてトイレに逃げ込むというチキンっぷり。 落ち着いてからこっそり見に行った。

 そして人がいなくなったところで…141、142、143 私の名前。あ、ある、あ、名前がある、あ、受かった、え、いいんだよね?一回去ってからまた見に行った。なんか幻だった気がして。
そしたらあった、受かってた…!
 今まで辛かったことがこみ上げてきて、掲示板の前で号泣してしまいました。
なんか落ちた人みたいですね。本当に落ちたと思ってたから。
 164人中104人が卒業となりました。友達が落ちててショック…。

 その日、母に合格を伝えました。
わかったかな?もっと発表が早ければ「おめでとう」が聞けたかもしれない…
 卒業試験の前日に入院している母に電話した時、「エリたんが今まで頑張ってたの、ママがよーく知ってるから、だからエリたん絶対大丈夫だよ」っと言ってくれたのを思い出します。
 私はそれを「プレッシャーかけないで!」っと言ってプンプンしたのでした。
そんなつもりで言ったんじゃないんだよね、本当に信じてるからそう言ったんだよね…ごめんね、ありがとう…。
 一番合格を伝えたい、きっと一番合格を喜んでくれる、母に「おめでとう」って言って欲しかった…な
でも、きっと心の中で、伝わって、心の中でそう思ってくれてるに違いないって信じてます。

これから国家試験にむけてまだ頑張らないといけない。
みんなに支えられてここまで頑張ってこれました。
最後まで頑張らないと。


 この日は、生検の為に腫瘍の一部を内視鏡下で摘出する予定でした。
MRIでの画像で、ほぼ多形膠芽腫に間違えないとのことでしたが、100%そうとは生検をしてみないと言い切ることができず、確定診断がつかないまま治療を進めることもできません。
なので、生検を行うことになりました。
 生検のための腫瘍一部摘出手術は無事に終わり、術後、集中治療室にはいりました。


もう声も聞けない*2010.1.18

◎2010年1月18日 MON

 翌16日、母のお見舞いへ行くと、食事も食べさせてあげないとできないような状態だった。
昨日、自分でサンドウィッチ美味しいって食べてたのに…
私が呼びかけるとにっこりこっちを向いて「エリたん♪」って呼んでくれました。

 しかしその翌日17日、日曜日、父と病室へ行くと、もう話す事ができなくなっていました。
所謂失語症です。呼びかけると目をうっすらあけて…話しかけるとただうなづくことしかできなくなってて…
ほとんど目を瞑っているだけになっていました。

 その次の日18日には、もう目も開けることはできませんでした。

つい一週間前に、ニコニコしながらお話して、「試験終わったらディズニーシー行こう!」って約束して、つい3日前は「エリたん♪」って笑顔で呼んでくれたのに。
あまりの進行の早さに父も私も愕然としました。

 その状態に父も「もうあんま持たないかもしれないなぁ…」と。
そして私に、「もしかすると、国家試験の直前や当日に逝ってしまうかもしれない、でもそれでもちゃんと平常心で国家試験を受けなきゃいけない」っと言いました。
 わかってる、わかってるよ。。。。

 国家試験は2月6・7日、もう残り時間がありません。
大学帰りに毎日病院へ通い、精神的にも体力的にもぐったりしながら、それでもやっとで勉強しました。
 そもそも、卒業試験に受かってないかもしれないっと受かってなかったら国家試験受けられないし…と、この生殺し状態もまた勉強に集中できない原因でした。
 いつものように家の2Fで勉強していると、階段を登ってくる足音がして、ガラっと扉が開き「えりちゃん、おやつ買ってきたよ〜♪」っと笑顔の母が来そうで来そうで…でも、もう来ることはないんだ…そんなふうに、ふと母が思い出されて、お陰で私の参考書や問題集は涙でヨレヨレになってしまいました。

 こんなんで、試験なんて受かるわけが…
母の事を理由に、不合格だったときの逃げ道を考えてしまう自分が嫌でたまりませんでした。


死の宣告*2010.1.15

◎2010年1月15日 FRI

 この日は、母が紹介された大学病院へ転院する日でした。
父は急遽仕事を休みにし、朝8時前、横浜の先にある入院していた病院から都内の大学病院へ車で母を連れて行くことに。
 朝、病室へ迎えに行くと、母はニコニコしながら待っていました。
どこへ連れて行かれるのか、把握していないようで、みんながバタバタしているのを不思議そうにしてました。
 トイレへ行きたいと言うので、ついていったのですが、2,3日前は普通に自分で歩きトイレへ行けたのに、この日の朝は、立つとフラフラしてしまい後ろへひっくり返ってしまいそうなくらいでした。
母は片手で手すりを伝え、片手で私の手を握り、やっとのことでトイレへ進みましたが、後はずっと車椅子になってしまいました。
 つい10日ほど前は、階段を上り下りしてお見舞いの見送りをしてくれていたのに、もう平坦な道をしっかり歩くこともできなくなってしまい、昨日今日とたった1日でどれだけ症状が進行してしまっているのか恐ろしく思いました。

 車の中で気持ち悪くなってたけど、酔ったのかな…?お腹すいたのかな?
 8時半すぎに到着したのですが、混んでいてなかなか診察してもらうまで時間がかかってしまい、CT・MRIだとか採血だとか、いろいろな検査をしているうちにすっかりお昼すぎになってしまいました。
 大学病院で待ってるときに、サンドウィッチあげたら「おいし〜♪」って笑顔でもぐもぐ食べてました。気持ち悪いのもちょっと治ったみたいでしたが、看護師さんに、造影剤で検査するから食べちゃダメって言われてしまいました。
 一通り検査が終わり、私は入院の手続き等をバタバタと病院内を行ったり来たりしていました。

 病室に行って、点滴されるとき、看護師さんに「点滴しますねー」って言われると「イヤだ!…って言ってもやるんでしょ?」っとかいってちょっと看護師さんを困らせていた。
そんな母の腕は、血管が細いせいで、点滴の青あざだらけ、使える血管がもうなくて、手のくるぶしの部分の辺りから刺すという…すっごい痛そうに体を突っ張って顔を歪ませて痛がっていました。
 

 しばらくして、私と父が診察室へ呼ばれました。
そしてMRIをPCで見せられて、私はその腫瘍の大きさに驚きました。
「え、どこが1円玉なの!?」っというのが最初の感想です。見た目、ピンポン玉かそれよりちょっと大きいくらいの像がありました。

 先生は画像を見せながら「腫瘍の外に一層白いラインが見えて、中は黒い影になっています。これは造影剤で白くなるのですが、中は壊死している為造影剤が入らず黒くなっています。」と所見を説明しました。
 このような特徴を示す脳腫瘍は『多形膠芽種』でほぼ間違えないらしい。
 そして、腫瘍は左の視床を埋め尽くすようにできていた。しかも延髄が真下にある。
できた場所が視床というとこ。脳幹近いかなり脳の真ん中の辺りにある。
私だって、医学を学んでるわけで、視床がどれだけ重要か位はわかってる。
 先生は手術して取りに行ったら最後、もう植物状態になってしまうと言った。
もし、手術で一部をとって腫瘍を小さくしたとしても、発育が早く、浸潤しながら脳全体に広がっていくから、すぐ再発してしまう。
この多形膠芽種は、予後がとても悪く5年生存率は5%程度だと説明しました。

 そして私と父の顔を交互にしっかりと見ながら、「あと3ヶ月…もしかしたら1ヶ月も…腫瘍が出血を起したり、下にある脳幹・延髄を圧迫したら一週間せずにお亡くなりになってしまうかもしれません。3ヶ月以上持ったとしても、どんどん植物状態になっていくかもしれません」っと言いました。
 
 私は呆然と聞いていました。取り乱したりすることはなくとても冷静でいました。
言っていることがわからなかった…わけではなく、言っていることはよくわかりました。
まるで、授業をうけているようで、まるでドラマか何かをみているようで…
とても他人事のように感じていました。何か第三者のようでした。

 そしたら、父が涙を流し「そうですか…」と。
泣きながら「今私達にできるのは、できるだけそばに一緒にいてあげることくらいしか…」と
私は、その時途端に自分に起きた現実だと感じて、涙が止まりませんでした。
なんだか眩暈がして、長い悪夢でも見てるんじゃないかって。そうだったらいいのに。夢だったらどれだけよかったか。

 先生に何か質問はないかと聞かれたので、「いつくらいからできていたのか?」尋ねました。
ここ半年くらいの間のようでした。
 そして、「もし発見が早ければ…?」と尋ねました。私は自分を責めていました。もっと早く大学病院へ来る判断をしていれば…と。
 だけど、先生は、たとえ発見が早くても、脳のどの場所にできたとしても、どんなに腕のいい名医がオペしようと海外へ行こうと、この腫瘍は完治することができない、と言いました。
とても辛い答えでした。小さければ発見できず、場所が悪くなくても、再発を繰り返すうちに脳全体に広がってしまう腫瘍のようです。
 なんでそんな凶悪な腫瘍があるのだろう…!?

 私達は、無理な手術は選択しなかった。
辛い、痛そうな顔はみたくない、苦しんでほしくないから。

 治療は抗癌剤と放射線による延命の為の治療になるとのことでした。
しかし、その抗癌剤も、効く人もいれば全く効かない人もいるそうで、やってみないとわからないそうです。放射線のほうは、あまり効きにくい腫瘍のようで、腫瘍ピンポイントではなく脳全体に照射する治療方法になるそうでした。

 現在、水頭症によってかなり脳圧が高まり、そのせいで健忘だとか方向感覚・方法がわからなくなる見当識障害が生じていたようで、緊急に手術が必要でした。
 水頭症を改善するためには3つの方法があるそうで、1つはドレーンで外に管を伝って直接液を排出する方法。しかしこれは、感染の恐れもあり、長くても2週間くらいで撤去が必要。
2つ目は、V-Pシャントで、通常のドレーンの管よりも細い管を皮膚の下を通らせて、頭とお腹を繋ぎ、お腹の方へ液を出させる方法。しかし、脊髄液の中に腫瘍細胞があった場合、この方法では、お腹の方に腫瘍細胞をばら撒いてしまうことになるので、禁忌とされていました。
3つ目は、オンマイヤリザボアという袋状のものを頭の中に設置して、そこに一時的に液が溜まるようにし、そこから注射器で吸い上げるという方法でした。
 3つ目が最善の方法ということで、オンマイヤリザボア留置の緊急手術を夕方過ぎに行いました。

 手術中のリスクや、術後のリスクの説明もいろいろと受けましたが、
その日の手術は無事に終わり、母も安定し眠りました。

 私はもう、ぼーーーーーっとして。。。
どう受け入れればいいのか、悩んでも泣いても心配しても後悔しても治るわけじゃない、時間が戻るわけじゃないのはわかってる。
でも、じゃあどうすればいいのって、思い出されるのはいつもニコニコして私の名前を呼んでくれる母の顔で、ただ泣く位しかできなかったです。 


またも白紙*2010.1.14

◎2010年1月14日THU

 私の不安はこの日、的中してしまいました。

 いつも通りに朝食を用意し、お昼過ぎに病院へ行く準備をしていたところに、一本の電話がありました。
入院先の病院からでした。今日は見舞いに来るのかと聞かれ、ちょこっとお話があるので来院したら父と病室で待っていて欲しいとのことでした。
私は、いやな予感がしていました。やっぱり容態が急変したんじゃないかと、胸騒ぎがしていたのですが、なるべく考えないように…

 そして病院へ行き病室で待っていると先生が来て別室へ移動しました。
そこで、「昨日とったCTですが…」とCTを見せられました。
それを見ると左の脳がだいぶ小さくなっているのが素人目にもわかりました。
 先生の説明では、脳と脊髄を循環している、脳脊髄液の通路が腫瘍によって塞がれて、頭に液が溜まり水頭症を起しているとの事で、23日までこのまま何も処置をしないというのは、もしかしたら危険かもしれないという。
 やっぱり。。。っと思いました。もしかしたらではなく、確実に危険だ…。
 しかし福島先生の病院の予約は23日。電話して事情を説明してなんとかならないか相談してみたものの、入院自体を早めても、今月(1月)は手術がいっぱいで埋まってしまっているので、早くても処置できるのは2月になってしまうという。
 そして、福島先生の病院と提携している特定機能病院を紹介され、必要ならばメールを送って連絡しておくとのことでした。
 一方、現在入院している病院からも、大学病院を紹介されて、そこならば今すぐに紹介状を用意できるとのこと…。
 結局また話が白紙戻ってしまいました。これで3度目です…。
 どっちがいいものやら…。しかし、家に帰って調べているような時間はなく、その場で決断を迫られてしまったので、すぐに紹介状を用意できると言われた大学病院へ早速翌日行くことにしました。

 家に帰って調べてみました。
 リアルタイムで腫瘍の位置を確認しながら、オペできるような設備のあるところ等、やはり脳はできるだけ切り開かないために、高度な医療設備が備わっているところが良いみたいです。
 大学病院のホームページには、設備や術式の説明や症例数が掲載されているので、見比べてみるといいと思います。
 あとはやはり、今、お見舞いの毎日の生活になって思うのは、家からの距離だと思いました。
決めた大学病院は、家から車で3,40分です。交通の便はなかなか良いです。
電車で通うことになるご家族の方は、毎回電車で通うのは大変かと思います。
 決断したその日は、「遠くても設備の整った良い病院なら…」と思っていましたが、大学病院や特定昨日病院は大差ないと思うので、交通の面から選んでも悪くないと思います♪


私の誕生日♪*2010.1.10

◎2010年1月10日

 結局、元居た病院に戻り、また入院生活がダラダラと始まりました。
私は卒業試験を終えて一段落していました。
 大学の帰りに電話して、それからお見舞いに行く途中のパン屋さんで、母の大好きなクロワッサンを買っていくと、とっても喜んで美味しそうに食べました。
いつも、質素なおかずにおかゆ…、決して消化機能が悪くなっていたり、栄養コントロールしているわけじゃないので、ちゃんとご飯を食べないと余計に栄養状態が悪くなりそうな食事でした。
 1月10日は、私の誕生日でした。
本当は、ケーキか何かを買って行って、一緒に食べようかと思ったのですが、電話してどんなケーキがいいか聞いたら、最近お見舞いに来た方に頂いたゴディバのチョコがとっても美味しくて気に入ったらしく、それをまた食べたいっというので、ケーキはやめてチョコを買って持って行きました。
ゴディバっていうと1つで高そうなイメージですが、可愛くラッピングされた箱入りのチョコでそんなに高くなく、しかもすっごく美味しい!私も試験の日に持っていって1つ食べました。

 チョコやクロワッサンを持って行って励ましていたのですが、心配な気を紛らわせていたのは私の方でした。
 私は不安でした。先生は23日の予約してある日まで、時間的には大丈夫だと言っていたのですが、毎日お見舞いに行っていた私には、母の状態の変化の早さを感じていました。
 つい先週のお正月は、お見舞いに行くと楽しそうにお正月のTV番組を見て、帰るときには出口まで見送りに来て、にっこにっこの笑顔で手を振っていて…
電話もメールも母から送られてくるし、電話すればしっかり話して、「ママはおバカになっちゃったのかなー」っと愚痴ったりしていました。
お正月にお雑煮を作ろうと思って、電話して出汁の取り方を聞いたら、丁寧に説明してくれたりしていたのに…
 それが、お正月明けには、もうメールや電話が来ることがなくなってしまい、メールも返信できず、最後は電話も取れたり取れなかったり…。
 電話が鳴っているのは分かっているのですが、どこを押せばいいのかわからないようで、私がお見舞いに行くと、いろいろボタンを押した形跡が残っていました。
 そして1月10日になる今日最近は、お見舞いに行ってもTVを見てることもなくなり、ベッドの上に不安そうにうつむいて座っていました。お見送りもできず、お部屋でお別れしていました。
 だんだんと口数が少なくなり、トイレも、行けたり行かれなかったり不安定になっていました。

 そうそう、おトイレと言えばこんなことがありました。
母は、おトイレを部屋でしてしまうことがありました。でもそれは、おもらしではなく、トイレに行きたくなって行動しようとするのですが、部屋からどうやって出たらいいのかわからなかったり、トイレには行くけど、その後どうしていいのかわからなかったり…母は「How to がわからないのよ、でも漏らしてるわけじゃないの!パンツはきれいだもん」って言っていました。
 それなのに、部屋を掃除しに呼んだ看護師さんが「オムツの方が楽でいいかしらねぇ」っとか言うので、母はとてもショックを受けました。ボケ老人じゃないのに!っと。
 そこで私が、看護師長さんを呼び出して、経緯を話し、理解が足りないとお説教してしまいました。
ついでに、「母はもう自分が腫瘍だと知っています」っというと、どうやらまだ病院側では「脳梗塞」にしてあると未だに隠していたようで、情報管理のなさにちょっと呆れてしまいました。
 個人個人としては、母のことを気遣ってくれたりありがたいこともあるのですが、どうしても病院の信用に欠けてしまうのはしょうがないです><

 そのこともあり、23日まで大丈夫なんて言っている病院を信用していいのかと不安でした。


卒業試験とサイバーナイフとママ脱走*2010.1.8

◎2010年1月8日

 1月7日、8日はいよいよ卒業試験でした。
世間一般の大学の卒業試験というのはどういう水準なのかよくわかりませんが、
私の通う歯科大学の卒業試験はかなり問題の難易度も高く、合格のハードルも高いです。おまけに1月と12月の二回あります。
通常の定期試験では、ある一定の点数以下だと不合格になります。なので、科目によっては、不合格者が0人だったり50人だったりするのですが、卒業試験はそういった一定の点数というものがありません。
全員が定期試験でいうある一定の点数を越えていたとしても、下から順に必ず何人かは不合格になるっという仕組みなのです。だいたい3〜4割りくらいの人が留年となってしまいます。
 実は私も、その不合格になった人の一人で、去年の卒業試験で落とされて、二度目の6年生でした。
去年は、いろんな理由があったとはいえ、明らかに勉強不足だった自分の責任!
今回は一年間それなりに頑張ってきたはず!だけど一筋縄でいかないのが卒業試験。難易度は相当なもの…。
 自分なりに頑張ったけど、冬休みの十分な時間なかなか勉強にも集中できず、おまけに、年末お正月の無理が祟って風邪を引いていました。不安なまま望んだ卒業試験。
 試験終了し、自分も放心状態…全てが終わったような感じでした。もう、頭が真っ白で、なんだったのかよくわからない。そんな感じです。
 自信が全くないのです。どんな問題だったのかも覚えてなくて、ただ一つ覚えてるのは、試験中に吐きそうになって、麻婆豆腐が込み上げてきてゴックンしたら喉がすっごい痛かったこと位…。


 そして8日は紹介状を用意してもらっていたサイバーナイフでの治療を行えるという病院への転院の日でもありました。
 私は試験で行かれないので、弟が車で連れて行くことになっていました。
 どうなったのか分からないまま、試験を終えた私は、すぐに母に電話しました。
紹介された病院について尋ねると、「今○○病院(元居たところ)なの〜戻ってきたの〜」っと言いました。
どうしてその病院に戻ってきてしまったのか、何があったのか全く事態が分からず、母に聞いても、母もよく分かってなく、おまけに「今日大変だったの〜迷子になっちゃったの〜」っと言ってました。
とりあえず家に帰り、弟に詳しく聞いた話に衝撃を受けました。

 やはり、紹介先の病院に行ったけれども治療等できず追い返されてしまったようでした。
なぜ追い返されてしまったのか…当初サイバーナイフでの治療ができるという説明を入院していた病院から受け、紹介状を書いてもらったのですが、
紹介先の病院では、『どういった腫瘍かわからない状態ではサイバーナイフを当てることができない、もっと精密な検査が必要』っと言われました。
 それなら、サイバーナイフでの治療をする為の検査等がなぜあらかじめ行われていなかったのか…、明らかに情報伝達や情報提供がうまくいっていないと感じました。
 そのうえ、書類には、診断名の口裏を合わせていたので腫瘍ではなく『初期脳梗塞』っと書かれていたのですが、情報が伝わっていないのか、CT画像を見た先生が、母と弟の前ではっきりと「これは脳梗塞ではなくて、脳腫瘍ですね」っと言ってしまったらしいのです。
入院していた病院の先生は「紹介先の先生には伝えておきます」っと言っていたはずなのに…
 呆然とする弟、事態がよくわからず混乱する母。あまりに酷い結果です。

 話が白紙に戻ってしまいました。
『どういう腫瘍か』わかるには生検が必要?ってことは、やっぱり開頭して腫瘍の一部を取らないといけない??
 悩んだ弟は、最終的に腫瘍を摘出することを考え、それならばなるべく設備の整った病院、腕の良い医者に見てもらおうと、最近テレビでも取り上げられていた『神の手』を持つと言われる福島先生の病院へ行こうと決心しました。
 すぐに家に戻り、必要な書類をプリントアウトし用意して、電話予約をとりました。
最短でも1月23日になるということでしたが、その日に予約をとることにしました。

 家から入院している病院まで往復で約一時間半、この間に事件が起きました;;
母の病室へ戻ると母がいません。最初はトイレにでも行ったのかな?そう思ったけれど、やけに時間かかってる、また迷子にでもなったのかな?
そう大きな病院ではないので、探せばすぐ見つかるはずです。
だけども、母がどこにもいない…!?
 弟は、母の携帯もなくなってることに気づきました。
電話かけてみると、繋がった!!母は、携帯がおかしくなったからソフトバンクへ行こうと思って外に出て行ったらしいのです。
 弟はとりあえず母に、コンビニで待つように言って、急いで探しに行きました。
全く知らない土地、どこのコンビニなのか…母が言う『近くに目印になるモノ』を頼りに、携帯のGPSで自分の位置を確認しながらひたすら走り回ったそうです。
 ヒントになるのは目印と、母は坂を上れないっということだけでした。
入院していた病院の脇には坂があり、その途中に駐車場があります。
車で紹介先の病院へ行こうとしたところ、坂が上れず、前に進もうとしても下がっていってしまったそうなのです。
 必死に探してようやく母が見つかりました。母は、病院内で着ていたパジャマのまま、裸足に病院のスリッパでこの1月の寒い外を歩き回っていたそうです。
 どうして看護師は把握してないの!?受付に人がいるのに、どうして誰も見てないの!?
正直、今回の情報伝達の不行き届きといい、母の脱走事件といい、病院に対する不信感が沸きました。
 情報や管理だけでなく、説明も不足していて、『これからどうするの?どうなるの?』そんな、治療計画や予後、先行きが全く見えません。
腫瘍のことだって、『一円玉くらいの腫瘍が真ん中辺りの左脳にある』ってことだけで、どんな腫瘍なのか診断名等もまったく説明されてません。
 それが母や、私達家族をどれだけ不安にさせたことか…。
 さらに、弟が放射線の先生から教えてもらった話で、最初からサイバーナイフ当てられるような場所ではなかったと、また、腫瘍が2つあるということもわかりました。
院長がサイバーナイフをするって決めたから、何もいえなくて申し訳なかったと言われたそうです。

 先生は、母に「残念ながらきれいさっぱり良くなります」なんて言ったりした。
今まで、サイバーナイフで開頭することなく腫瘍を取り除ける。8日にサイバーナイフで治療してもらえる。
そんな風に、母も私達も思っていました。それがこの有様です。
 今日治る、よくなる、家に帰れるっと思っていたのに、話が白紙になり、おまけに予期せぬ腫瘍の告知、この反動のショックはとても大きいものでした。
「ママ、相当ショック受けてた」と、弟に聞かされたとき、母が可哀想で私もとてもショックでした。
最初にこの病院に来たこと、私のしたことは間違ってたのかな?どうすればよかったのかな…?

 話が白紙になり、先行きが不安になってきました。
私は、23日の予約の時期が不安でした。あと二週間近く待っていて平気なのだろうか?
この病院にあと二週間も入院させておくことも不安でした。


お正月の私*2010.1.4

◎2010年1月4日WED

 私は心配で不安な日々を過ごしていました。
夜寝ても1,2時間で目が覚めて、不安から吐き気に襲われたり、また過呼吸になりそうな不安もありました。
 毎朝起きて食事から洗濯、掃除…家事をしながら午後は病院へ行き、帰るとぐったり…。
1月7日8日に迫った、卒業試験に向けての勉強…。
勉強する時間も殆どなければ、こんな時に集中できるほどの精神状態でもなく…。
やらなきゃいけない、失敗したら卒業できずにまた一年間繰り返すことになってしまう…。
今頃他のみんなは試験に向けてガリガリ勉強してるんだろうなぁ。
不安と焦る気持ちでいっぱいでした。

 母が入院しショックを受けていた頃、弟が帰省して居るだけで、ちょっと話しているだけで、少し不安から開放されて、落ち着けました。精神的にとても支えられました。
 家族にとても支えられました。だけど正直、父や弟がいて負担が増えたというのも事実!
だって、誰も全然協力してくれないんだもん!
私が早く起きてご飯作っても、みんなグータラ寝てて、後片付けもしてくれない!><
物を出したら出しっぱなし!ゴミはその辺にポイポイ捨てて散らかすだけ散らかして、ちっとも掃除しない!
洗濯物は増やすだけ増やすし、お風呂とトイレはすぐ汚れる!
たまには、朝のゴミ出ししてよ〜!!
お陰で勉強する時間も全然ない!時間があったとしても集中できるかわからないけど。。。

 っとちょっとぶちまけたらスッキリしました(*´∀`*)

 実はそんな不満を、入院している母に愚痴った事がありました。
母は、いつも自分がやっていた事なので、私のストレスを身に染みて分かってくれて、私が母を励ます立場だったのに、逆に励まされてしまいました。
「えりたんは、よ〜く頑張ってるよ、ママは知ってるよ〜」笑顔で私を慰めてくれました。
 お正月明けて、母の様子も変化なく、私もちょっとずつ安定してきて、勉強に集中できるようになったので、お見舞いは父と弟に任せて、家で勉強していました。
 母は、父と弟に、ちょっとは私に協力するように言ってくれたんだと思います。
ちょっとずつ協力してくれるようになりました。
父なんて、何をどう手伝えばいいのかわからないのか、オロオロしながら、なぜか埃まみれだった虎の置物を突然磨いて「寅年〜」っとか言ってました。

 きっと普段からこなしている方にとっては何のストレスもなくこなせることなのかもしれませんが、私にとってはかなりの負担でした。
 ずっと実家暮らしで料理なんて全然しないし、母に任せっきりだったので、すぐ『どうやるの?こういう時ってどうするの?』な壁にぶち当たります。
 だいたい、何がどこにあるのか全然把握してなくて、でも母に聞いても脳腫瘍のせい(?)でチンプンカンプンだし…。
 一番困ったのが、書類関係!ひっきりなしに、家に届く『重要』『親展』の赤文字…。
銀行だとか、カード会社だとか…全く把握してないし、母に聞いても今は分からないだろうし、今そういうことを聞きたくない…。
 自分が、未熟で、全然頼りなくてダメダメで…25歳になってもこんなんで、本当しょーもない…と自己嫌悪でした。

 だけど、だからこそ今頑張って、そして母が退院したら、ご飯作ったり手伝ったりしよう!
弟と一緒に作ったゴハンを携帯で写真撮って、母に送って「家帰ってきたら、今度作ってあげるね!」って約束し、楽しみにしてました。


脳腫瘍発見*09.12.28

◎2009年12月28日MON

 日曜日の夜はずっと母の手を握って、隣で見守りながら寝ました。
夜中に突然、容態が急変したらどうしよう…このまま起きてくれなかったら…私が眠ってる間に一人で起きて部屋を出てすぐの階段から落ちてしまったら…これからどうなるんだろう、もしこのまま母が私のことまで忘れてしまったら…不安がいっぱいでろくに眠れず、月曜の朝を迎えました。

 母の代わりに、食事を用意し朝食を済ませ、すぐに車で前日電話した病院に連れて行きました。
 車の中で、母は自分がどうして病院に連れて行かれるのかよくわかってなかったみたい。
「昨日、救急車来たんだよ」って言っても、覚えてないみたいで、「そういえば、知らないおじさんがイキナリ来てビックリした」って言ってました。
救急車を呼んだ理由や経緯を話しても、「そうなの〜?なんで〜?どうして〜??」ってチンプンカンプンでした。
 私が持たせたミニーちゃんのぬいぐるみを抱いて、そわそわと不安そうな様子でした。
分からない事をいくら考えても分からなくて、なんで分からないか考えてもやっぱり何も分からない、その『分からない』事がとても不安にさせているんだと思います。
鞄の中を見て、「保険証は持った来たっけ?」と何度も確認していました。
いろんな事が不安で心配なんだと思います。「ママは心配しなくても大丈夫だよ」ってずっと励ましていました。
 本来ならば、この日は、父が中国へ旅行に出かける日でした。
母は、「パパ、旅行は?」「折角なんだから行っておいでよ〜」って、自分の心配よりも、父の旅行を気にしてました。
そういう事は覚えているのだけど…。
 覚えている事と分からないことが斑で…どうしてなのか、何が分かることなのか、とかハッキリしたことは、脳みそのことなんでよくわかりません;;

 何年かぶりの病院に到着しました。小学校以来でしたがちょっと寂れた病院も、穏やかな口調の院長先生も、小学生の時よく絡んで遊んで貰った放射線の先生も相変わらず変わっていなくて、懐かしかったです。
 院長先生の診察で、私は事細かに母の様子を伝えました。
先生は「まぁ、問題はないと思いますけどね、娘さんも、もうすぐ試験だし、貴方がお家に居たらいろいろと不安にな事もあるでしょうからお正月明けくらいまで、ちょっと入院しようかね。」っと母に言いました。そしてCT検査。
母は、しっかりと受け答えしていたし、CT検査を待ってるときも、昔からの知り合いの放射線の先生とも楽しそうに世間話なんてしてました。
でも翌日、「え?そうなの?ママ、○○さん(放射線の先生)と話してた?」っと覚えていなかったみたいでしたが…

 CT検査の結果を待っていました。
私は、院長先生も問題はなさそうと言っていたし、母も心配そうにしていたけれども、ひどい吐き気や頭痛や麻痺などの強い症状があるわけでもなかったので、ちょっと安心していました。
安心の中にも、不安はありましたが…なるべく考えないようにしていました。

 CT検査の結果が出て、院長先生に父と私が呼ばれました。
途中、「ショックを受けないで聞いてくださいね」なんて言われて、『ドキッ!』っと胸が締め付けられ…階段から落ちそうになりました。
『え??今の何?どういうこと??まさか…ショック受けるって…』もう、頭の中ぐるぐる…
そんなこと言わないでよ…;;
 CTを見せられ、「非常に残念で申し上げにくいんですが、ココに脳腫瘍が見つかりました」と…。
もう、『は??????????』っとしか思えませんでした。
なんで?????何でママが?????
 母は、とっても健康で、私はしょっちゅう風邪引くのに、母は滅多に引かないし、私がインフルエンザになっても絶対移らないし、食事もしっかり作って気をつけていたし(塩分多くて何度か注意したことはあるけど…)、スポーツジムに通って、ジムで運動したり、水泳のクラスに入って泳いだりと、決して不摂生だったわけじゃありません。
ついこの前まで、仕事もしていたし、なのに、なんで??なんで突然?

 先生から、お正月明けに退院を考えていたけれども、そういうわけにいかなくなった。っということ、腫瘍は1〜1.5cmくらいのものが、耳のちょっと手前と頭のてっぺんを結んだ所(左側)あたりにある。っということを告げられました。
 それから、母には精神状態も考えて『軽い脳梗塞』っということにして、腫瘍のことは伏せておくと、看護師さんにも口裏を合わせておくという事でした。
 このご時勢、殆どの病院では告知するし、例外はあれど、私もそう習っているので疑問は多少感じましたが、確かに母の精神状態も不安定だったので、それを考えてのことだとこの時は納得しました。
 この事が後に裏目に出てしまうとは思ってもいませんでした…。
 今後の方針として、お正月明けに提携している脳神経外科病院を紹介し、ガンマーナイフでの手術をする予定だと聞かされました。
 ガンマーナイフで治るの?ママは治るの?いろんなこと忘れていったりしない??
そんな気持ちでいっぱいでした。帰り道、ぽろぽろと涙がこぼれてしまいました。

 一度家へ帰り入院の準備をし、帰省した弟と合流しました。
弟は、前日の電話では新型インフルエンザの濃厚接触者で、しばらく帰れないはずでした。
私が卒業試験前の大事な時期だったので、もしインフルエンザで移ったら大変だ、っという事だったのですが、そんなのいいから帰って来いと言って帰省させました。
 幸い、インフルエンザじゃなかったのでよかったです。
 弟も帰って、父も旅行行かなくて、一か八かの賭けでしたが、どちらも結果よかったと思います。

 本当に突然の出来事でした。長くて重い一日でした。
ただただ、あの元気なママが…信じられない…。それだけです。


救急車!*09.12.27

◎2009年12月27日SUN

 日曜日の朝、いつものように「えりちゃーん、ゴハンだよ」って母が私を起しに2Fへ来た。
でも、なんだかすっごいフラフラで、足元つまずいてひっくり返るくらいに。
異様な出来事に、胸騒ぎがしてきた。
 1Fへ下りてみると、朝食の準備をしたようだけど…今まで見たことのない光景でした。
いつもは、テーブルを片付けて、お味噌汁にゴハン、焼き魚、納豆…キレイに並べてきちっとした和食なのに…その日は、テーブルはぐちゃぐちゃのまま、私のお茶碗に父のゴハンがよそられて、納豆に入れられたカラシはお椀の方に汚く付いて、何か白っぽい物や油が浮いて冷たくなったお味噌の入ってないお味噌汁。
心臓が締め付けられる位のショックで、今でもはっきり覚えています。
初めて「ただ事ではない」っと、どうしようどうしよう…
何事なのか分からない、これからどうすれば、どうなるのか分からない、不安と焦りでいっぱいでした。

 なんででしょう、こんなときに限って!っていうのは…
28日から父は中国へ旅行の予定でした。
旅行へ行く準備をいろいろしてたようで、母に任せていたので、チケットはどこだ?とか駐車場の予約がどうなってる?とか、アレないコレない、大騒ぎ。
 だけど、母は「えー…、わかんない…」 イライラする父、不安の私。

 取り敢えず母を2Fへ連れて行き寝かせました。
父に母の状態を説明すると、「バカお前、それ脳梗塞かもしれないぞ」って言われ、精神的なものだとずっと思っていた私に、さらに焦りが。
 でも、私もこれでもちょっとは医学を学んでる身、脳梗塞の3兆候といえば、ロレツが回らない・顔面の麻痺、手を真っ直ぐ前に伸ばすと下がってきてしまう。この3つのうち2つでもあれば脳梗塞の疑い80%っと麻酔の授業で習ったのを思い出す。
 脳梗塞じゃないにしても、「ただ事ではない」のは確実。
 どうしたらいいのか全く分からないまま、父には病院行かせろって言われ、病院行くにしても、私運転できないし、どこの病院へ行けばいいの?????
 泣き出しそうだけど、泣いてる余裕もなく、必死で。。。とりあえず電話!
医学部へ通う弟に電話!歯科大の友達へ電話!弟は医学部の先生に電話!
 父が旅行どうしよっかなー…とか言ってる。
今後、もしものことがあったときに、私しかいないんじゃとっても不安。まして、海外に行かれたんじゃ連絡もなかなかとれないし。運転できる人がいないとそれも困る…。
そして旅行はキャンセルすることに。
旅行会社に電話!駐車場に電話!
ネットでいろいろ見ながら、いろんなとこへ電話!

 弟は「脳梗塞じゃないにしても、脳のCTなり調べたほうがいい」と。
友達は「今日は日曜日だから、救急で行っても、脳外科の先生がいるとは限らないし、自分で行くと後回しにされたりするから、救急車で行ったほうが的確な病院に連れて行ってくれると思う」とか。
「近くの地域の特定機能病院」…とはいえ、都内なので、選択肢が多いのは利点でもあり欠点でもあり…。どこに何があるのか、どこ行けばいいのか、やっぱりわからない。
 近いところを探したけれど、こっちとこっち、どっちがいいんだろう?ってなってしまい埒が明かないので、考えた末、救急車を呼ぶことに。

 2Fで寝ていた母は、突然知らない人が来たので、ビックリ。
「自分は普通なのに、なんでこんなことになってるんだろう??」っていう感じでした。
やはり、救急隊の方も、脳梗塞の兆候をチェックしたのですが、その疑いはなさそう。
意識もはっきりしているし、受け答えもしっかりしているので、救急性がないと判断されてしまいました。
 やはり日曜なので、病院に救急車で行ったとしても、応急処置のみで、精密検査等ができないから、翌日外来で病院へ行くことを勧められました。
でも、希望があれば、救急車で適正な病院に連れて行くとのこと。
 母は、「なんでなんで、どうしたの〜???」状態。
そして、結局、救急車での搬送を拒否しました。しっかり自分で達筆な字で自分の名前をサインしてました。

 「で?どこの病院へ?」なんだか、また振り出しに戻ってしまいました。
弟とも話したのですが、20年以上前から知り合いの脳外科の先生がやっている病院があり、そこへ相談することにしました。
 横浜のちょっと先にある、大きな病院ではないのですが私が小学生の頃よく行った病院で、院長先生と放射線の先生と知り合いで良くして貰っていました。
 電話し、症状と現病歴を伝えると、「大丈夫だと思うんだけどね、でも心配なら、検査するから明日おいで」って言うので、父も旅行をキャンセルしたことだし、車で連れて行くこととなりました。


クリスマスのチキン*09.12.26

◎2009年12月26日SAT

 年末年始の準備に、スーパーに買い物へ。
やっぱりフラフラ気味の母を一人にはできないので、買い物へ同行。
 車でスーパーを目指すも、実は、私免許を取ったっきりのペーパードライバー。
試験終わったら、隣に母乗ってゆっくり練習しに行こうねって約束をしてました。
なんとかイケる気がして運転したものの…曲がれない!
ひたすら直進してたらもう、永遠に着かない気がして、結局母が運転することに。。。
全く意味のない…
不安はあったけど、運転は問題なくとっても安全運転。
私が運転したほうが、よっぽど危険でした。

 スーパーへ行き、なじみのお肉屋さんへ行き。
お肉屋さんでは「もう、最近ボケボケしちゃって〜だめなのよ〜おバカになっちゃった〜」なんて笑っていました。
 無事買い物も済ませて、帰るはずだったけど、なかなか家にたどり着かない。
同じところを回ってる気がして…道大丈夫なのか聞くと、
「今日はパパが帰ってくるから、駐車場の方に止めないといけないから」とか、
それにしても、駐車場は家のすぐそばで、方向は同じ。家に帰るのと同じ道でいいはずなのに…
 なんとなく見覚えのある道が見えて、とりあえず曲がって貰って、そしたら私も道が分かり、やっとこさ家に到着。
 前日に、買い物に行ってなかなか家に帰ってこなかったのも、もしかしたらこの日みたいに、グルグル回ってしまっていたのかも…?

 この日は、父の帰ってくる日。父は普段、家とは別に仕事場に近いマンションに住んでいて休みの日の前日に家に帰ってきます。
 26日だけども、クリスマスということで、チキンを予約してあったのを取りに行き、帰ってきたら美味しそうなご飯が待ってました♪


 母は、「エリたんがいるから安心」と私が一緒にいることをすごく頼りにしてくれて、私もそんな母がとても頼りになっていて、きっと今まで生きてきた中で一番…二人で一つだったと思います。
もう、イライラ八つ当たりしたりなんてしない、しっかりママを支えてあげようって誓ったのでした。


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